ディズニーランドに続く第2テーマパーク構想には様々な案があった。そもそもテーマパークではなく「街」を作るという構想もあり、海をテーマにしたテーマパークというコンセプトにも幅があった。
ディズニーランドは女性客が7割を占める。第2パークを作るなら、男性をターゲットにするべきだという案もあったはずだ。女性向けのディズニーランド、男性向けの第2パークというコンセプトだ。
事実、ディズニー社が提案したディズニーシーの当初案は、「冒険」を中心とした10代男性が喜びそうな内容だった。しかし、オリエンタルランドは、その案に反対した。加賀見会長はディズニー社とのコンセプトを詰める会合で「モア・ロマンチック!」と叫んだと述懐している(
加賀見(2003))。オリエンタルランドの意向で、ディズニーシーは、ロマンチックな要素を多分に持ったテーマパークになった。
オリエンタルランドが第二パーク構想を発表したのは開業5年目の1988年の記者会見の席上だ。ディズニーシーができたのは2001年なので、構想から実現まで14年かけたものとなる。
それに先立ち、ディズニー社はさまざまな提案をしている。1986年1月、舞浜地域の開発をめざした「東京ディズニーワールド構想」を提案した。1987年には、7つのテーマを持つゾーンで構成された「
ディズニーシティ」のコンセプトを描いてきた。これらは、舞浜地域の開発に関する提案で、第2パークの提案というわけではなかった。
その後、第2パークの導入の提案がされ、1988年の記者会見での発表となった。しかし、この時点で東京ディズニーシーが計画されていたわけではない。
第2パークとしてディズニー社が最初に提案してきたのは、映画スタジオをベースにした「
ディズニー・ハリウッド・マジック」である。しかし、オリエンタルランドの高橋会長と森社長が米国の似たテーマパークであるディズニーMGMスタジオを視察して、このテーマパークは日本に向かないと考えた。ハリウッド文化の象徴である映画をテーマとすることに対して、大いに疑問があったためだ。巨大な映画産業を持ち、映画に対する思い入れが日本人とは比較にならないアメリカ人であれば何度も訪れるかもしれないが、これを日本に持ってきても成功はしないと判断した。オリエンタルランド側がディズニー社の提案を拒否した形になる。多額の違約金を払っての決断だ。
フランク・ウェルズディズニー社社長は非常に落胆したが、オリエンタルランドに対する基本的な信頼感は失っていなかった。1992年7月に、ディズニー社は「ディズニーシー」のコンセプトを提示した。同社コンセプトチームが発表した案は、10代の男性ティーンエージャーが喜びそうな「全体的に冒険が強調された、東京ディズニーランドとはかなりイメージの異なるパーク(
加賀見(2003))」だった。冒険には自然との闘いや孤独感がつきものだが、一方でどことなくさみしいイメージがある。海底や地底に潜るアトラクションが多数用意されていたために冷たい印象も否定できなかった。オリエンタルランド側では、ディズニー社の提案に漂っている暗さ、さみしさはなんとも排除したかった。冒険色の強いイメージからロマンティックなパークへと転換するように交渉した。
また、当初案では新しい試みとして生きた動物が登場していた。50羽のペンギンやイグアナなどである。しかし、高橋会長は生き物を見世物的に扱うことには反対し、この企画は実現しなかった。
最も大きな問題で、長い間懸案となったのは、東京ディズニーシー全体のアイコン(シンボルとなる建築物)である。ディズニーランドのアイコンはシンデレラ城だ。それに見劣りのない、21世紀を感じさせるメッセージ性があり、ダイナミックかつ温かいイメージのシンボルを、高橋会長は探していた。ディズニー社は灯台を提案した。しかし、日本人には灯台は岬の先にある寂しい建物というイメージがある。また、ビジュアル的に弱く、メッセージを伝える力がない。そこで、水の惑星地球を表現したアイコン「ディズニーシー・アクアスフィア」になった。いよいよ工事入札というとき、仕様書を見て、「難しすぎてできない」と降りる会社がいくつかあった。それほど高度で最新の技術が使われている。
こうした経緯を経てディズニーシーは着工され、2001年に開園する。